Summary

 「遺棄毒ガス」「遺棄化学兵器」という言葉について、聞いたことがあるという人はとても少ないと思います。ナチスドイツの強制収容所で毒ガスが使われていたということは知っている人はいるでしょう。しかし、かつて日本でも陸・海軍によって毒ガス兵器が研究され、製造され、戦線に配備されていたというのを知っている人はほんとうに稀だと思います。

 ここでは、世界と毒ガス兵器の歴史、日本と毒ガス兵器の歴史をはじめとし、現代でも日本や世界が抱える「毒ガス」について解説します。

化学兵器の誕生と国際法


 古代よりトリカブトや砒素など、自然界から生成された毒剤や、硫黄を燃やした亜硫酸ガスが戦争で使用されたことはあったと伝えられている。しかし、製造技術に限界があり、大規模に応用されることはなかった。それが、産業革命によって化学工業が発展すると、その副産物である毒ガスも大量に造ることが可能になる。特に当初、塩素ガスは列強各国の軍関係者にとって、絶好の新兵器として注目された。
 1914 年から1918年まで第一次世界大戦では、毒ガスが兵器として大々的に使われるようになった。1915年の春、ベルギーのイープルでドイツ軍は、イギリス 軍などの連合軍に大量の塩素ガスを放射した。ドイツ軍は3万本の塩素入りボンベを前線に運び、たった1回の使用で5000人もの人を死に至らしめ傷害者は 1万人にものぼったという。この戦闘をきっかけに、毒ガス兵器の開発・生産が進んだ。当時、化学工業技術で優位に立っていたドイツは塩素ガス の 18倍も毒性の高いホスゲンも使用した。この気体は無色無味だったので、事前に防御することが難しかった。防毒マスクもつぎつぎに新開発され、それがまた さらに強力な毒ガス兵器の生産へとつながっていった。

大戦の後期、ついには「毒ガスの王様」といわれるイペリット(マスタード)ガスが実戦で 使 用される。初めに使ったのはドイツ軍であったが、英仏両軍も開発し応戦した。イペリットは皮膚に触れるとただれる、びらん性ガスで、吸い込むと肺がが侵さ れ死んでしまう。これによって、さらに大勢の犠牲が生まれた。
 このような化学兵器の危険性について、人々は以前より認識を持っていた。 1899 年、オランダで第1次ハ一グ平和会議が開かれ「窒息性あるいは有毒ガスの散布を唯一の目的とする投射物の使用を禁止する宣言」を採択した。この会議 はヨーロッパの国々が中心であったが、中国と日本も参加しており、アメリカとスペイン以外の全ての国が、この宣言を批准している。(1907年の第2次 ハーグ条約でも日本は調印・批准し、毒ガス兵器使用の禁止を再宣言している。)
 大戦終了後、いくつかの軍縮会議や国際連盟で化学兵器の問題は い つも取り上げられ、ようやく1925年、ジュネーブで「戦争中に窒息性、毒性あるいはその他のガスおよび細菌作戦装置を禁止する議定書」が調印された。こ こでは、毒ガス兵器の実戦使用だけが禁じられ、研究・開発・保有については制限されていない。しかし、日本はこの議定書に調印したが、批准はしなかった。


日本軍は毒ガス戦をいかに準備したか


1996年9月開催の毒ガス展"化学兵器の歴史と廃絶への道"パンフレットより
1996年9月開催の毒ガス展"化学兵器の歴史と廃絶への道"パンフレットより

  第一次大戦でヨーロッパ各国が毒ガスを使用したことに、日本の軍部は多大な関心を寄せた。まず、1918年に陸軍軍医学校で化学兵器研究室ができる。当時、一等軍医だった小泉親彦がその責任者に就任した。
 同じ頃、シベリア出兵で毒ガス戦の装備を必要と判断した軍は、臨時毒瓦斯委員会を発足させた。小泉もこの委員会の委員で、主にに防毒の研究を進め、新式の防毒マスクを開発した。これらのマスクはシベリアに約2万個送られた。
 

 日本の軍部は1917年の時点で、すでに塩素ガスを造る技術を持っていたが、さらに本格的な兵器を研究する機関が必要だと考え ていた。そこで1919 年、陸軍科学研究所が創設され、臨時毒瓦斯委員会の主力メンバーはここに入った。久村種樹中佐らは独・仏・米へ視察に行き、化学兵器製造を緊急の課題だと 日本軍部に説いた。
 一方、同研究所内には1927年、秘密戦資材研究室が作られ、後に川崎市登戸に移転し、陸軍登戸研究所となった。その後、ここで開発された毒物は、軍事防疫給水部から中国の南京へ送られ、栄1644部隊でも人体実験が行われた。
 1929 年、広島の大久野島に陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)忠海兵器製造所ができると、日本の毒ガス製造は大量生産時代に入る。大久野島では、発煙筒のようにして 毒ガスを放射する兵器を500発以上製造したほか、毒ガスそのものを福岡県の門司港近くの曽根兵器製造所に運搬して砲弾につめ、兵器化された毒ガスは中国 へ送られたのである。
 ほぼ同時に1933年、千葉に陸軍習志野学校が創設され、化学戦の指導将校を養成し始める。ここで約1万人の将校・下士官が終戦までに生まれ、中国に渡った。
 中国東北部のチチハルでは関東軍技術部の化学兵器班から、化学部(516部隊)が1939年に新設された。ここでは毒ガス戦の実験演習も行われ、練習隊(526部隊)もフラルキに作られた。
 また、海軍も陸軍と密接に連係を保っており、1943年には神奈川県に相模海軍工廠(こうしょう)を設立し、イペリットなどの毒ガスを製造している。

毒ガスを日本でどう造ったか


 陸学科学研究所で化学兵器が研究され、国内での毒ガス生産が可能になると、それをどこで製造するかが問題となった。絶対に秘密が守れて、事故が起きても災害を最小限に留めることができる場所―――それが広島県・竹原市、忠海港より船で数十分の距離にある大久野島だった。

 

 その毒ガス工場は、正式名称を陸軍造兵廠火工 廠忠海兵器製造所といい(後に東京第二陸軍造兵厳忠海兵器製造所と改 称)、1928年に工場建設が 始まり、翌年の5月に開所式が開かれている。当初、大久野島の毒ガス年産は小規模でスタートしたが、徐々に大量生産体制へ設備を整えていく。
 それは日本が急速にファシズムの深みにはまっていくテンポと同じだった。
  工員は一般募集のほか、国家総動員法の徴用令で強制的に島へ送られた人もおり、未成年者も少なくない。そこで、毒ガスは「人道的兵器」だと洗脳される。つ まり、殺人が目的ではなく、敵の戦闘能力を弱めるために使われるのだと教えられたのである。さらに島でのことは一切家族にも話してはならないと命令された。
 島内では致死性の、イペリット、ルイサイト、青酸、嘔吐性のジフェニールシアンアルシン、そして催涙ガス等の毒ガスを製造したが、この工 場 で働く人々は常に危険と隣合わせだっな。ルイサイトが一滴だけ帽子についたのを知らずに外に出た人が激しい頭痛に襲われ、それを診察した工場の医者が「治 せるようだったら兵器ではない」と言ったとという。さらに、戦後は高い癌発生率や慢性気管支炎などの毒ガス後遺症に苦しんでいる。
 他にも海軍 や 民間化学工場が生産した毒ガスはあるが、全体の総量の大部分が大久野島で造られた。砲弾に詰める作業は、現在の福岡県・北九州市にあった曽根兵器製造所で 行われた。1931年から1945年の8月までに生産された各種毒ガスは6616トン、毒ガス兵器746万発という調査資料がある。
 中でも 1937年の日中全面戦争突入後では、毒ガス生産高は大幅に増大している。1942年ごろまでの最盛期には、徹夜作業や女性の深夜作業も行われた。アメリ カが「これ以上、毒ガス戦を続けるならば、同様の方法で報復する」と警告した1942年以降、生産量は大幅に減少。この後、日本本土への空襲が始まると島 内に防空壕が掘られたり、学徒も動員され毒ガスの疎開が行われた。

【1996年9月開催の毒ガス展"化学兵器の歴史と廃絶への道"パンフレットより】

毒ガス兵器を中国でどのように使ったのか


 1937年、日中全面戦争が始まると日本軍はすぐ各種毒ガスの使用を開始した。「支那事変二於ケル化学戦例証集」(1942年陸学習志野学校作成)には、 1937年から1942年まで、日本軍が中国大陸で実施した毒ガス戦の中から特徴的な56例が挙げられている。その中には、くしやみ性のあか剤や致死性の 高いびらん性きい剤(イペリット)を使った兵器(あか弾、きい弾)の実戦結果も示されている。

 1938年の春以降、毒ガス戦は将来の対ソ戦を想定した実戦訓練という意味もあり、各地で大規模に行われた。1938年1月4日の大陸命第39号を受け て、4月11日、皇族の開院宮載仁(かんいんのみやことひと)参謀総長の名で、あか弾の使用命令、大陸指第110号が出された。また、戦地ではこの命令を受けて、毒ガスの使用を徹底的に隠すように指示を出している(特種資材使用二伴フ秘密保持二関スル指示)。このような指示は、毒ガス戦全体を通じて出されている。
  1938年6月から11月までの武漢攻略作戦は、日中戦争最大の侵攻作戦だったが、ここでは毒ガス兵器が本作戦に必要不可欠なものとして組み入れられてい る。中国軍はガスに対して無防備で、あか剤を吸い込んだ兵士は激しく苦しみ、回復までに30~40分を要したという。その間に日本軍は、多数の中国軍兵士 を銃剣で刺殺した。
 1941年の宜昌攻防戦では、10月7~11日にかけ耳、山砲兵第19連隊がきい弾1000発、あか弾1500発使用し、危 機を脱した(上記例証集・戦例40)。宜昌でのイペリットの使用は、当時から国際的にもよく知られている。他にも、きい剤を使った作戦の記録は多く、討伐 や警備を名目としてかなり頻繁に使用された。
 これらの毒ガス戦は、天皇の幕僚長である参謀総長の使用許可命令に基づいて行われていたが、激戦が 続く中で、次第に猛毒のきい剤の使用も止むを得ないという状況になっていった。太平洋戦争開戦後はアメリカの報復を恐れて、次第に毒ガスの使用は減ってい くが、それでも敗戦まで続くのである。
 日本軍の毒ガス兵器使用は、他の東南アジアの国々でも散発的に行われた。しかし、特に中国においては大規模であった。だからこそ、敗戦時に捨てられてきた毒ガス弾の数も多いのである。【1996年9月開催の毒ガス展"化学兵器の歴史と廃絶への道"パンフレットより】
 

中国における遺棄化学兵器問題について


中国における遺棄化学兵器問題の経緯

 中国における遺棄化学兵器問題は、第二次大戦終了までに旧日本軍により中国に持ち込まれた化学兵器が終戦後も残されたままであったことから、1990年に中国政府がその解決を日本政府に非公式に要請してきたことに端を発する。

  その後、我が国が1995年9月15日に、また、中国が平成9(1997)年4月25日に、各々化学兵器禁止条約を批准し、同年4月29日に同 条約が発効したことから、我が国は、同条約に基づき遺棄締約国として中国における遺棄化学兵器の廃棄を行い、中国は領域締約国として廃棄に対し適切な協力を行なう協定を1999年に日中政府間で結んだ。

 

1. 中国における遺棄化学兵器問題の年表

 

1987       中国がジュネーブ軍縮会議において遺棄化学兵器に関する遺棄国の責任について初めて発言
1990       中国が日本に対し非公式に中国における遺棄化学兵器問題の解決を要請
1991       第1回日中政府間協議を開催
1991       外務省による第1回現地調査を実施
1992       中国が遺棄化学兵器の廃棄責任は日本にあると公式表明
1993       化学兵器禁止条約署名式
1995       日本が化学兵器禁止条約を批准
1996       外務省によるハルバ嶺地区現地調査を実施
1997       第1回日中共同作業グループ会合開催
       中国が化学兵器禁止条約を批准
       化学兵器禁止条約が発効
1997       化学兵器禁止機関(OPCW)に対し、ハルバ嶺の遺棄化学兵器を約67万発と申告
1997       内閣に遺棄化学兵器処理対策連絡調整会議を設置
1997       内閣官房に遺棄化学兵器処理対策室を設置
1999       総理府(現内閣府)に遺棄化学兵器処理担当室を設置
1999       第1回日中専門家会合を開催(以後、案件に応じてほぼ毎月開催)
1999       遺棄化学兵器の処理に関する日中覚書に署名
2000     中国が外交部内に日本遺棄化学兵器問題処理弁公室を設置
2000       黒龍江省北安において第1回発掘・回収事業を実施(~2005年末現在までに10回実施)
2002       内閣府によるハルバ嶺地区現地調査実施
2004       すべての処理技術及び処理施設立地場所について日中双方で一致
       内閣府を補助する事業実施機関として(株)遺棄化学兵器処理機構を調達
2005       OPCWに対し、ハルバ嶺の遺棄化学兵器を30万~40万発推定と再申告
2006       OPCW執行理事会において、中国遺棄化学兵器の廃棄期限2012年4月まで延期承認

 

2. 日中間協議等

 

  中国における遺棄化学兵器問題での日本政府と中国政府との協議は、1991年1月に開催された第1回日中政府間協議(局長級)に始まった。しか し、協議が本格化したのは、化学兵器禁止条約発効を前にした1996年12月の第4回日中政府間協議を受けて、日中共同作業グループ会合(課長級)が設置されてからである。

 1997年4月以降、同グループ会合を中心に、本件処理に向けた具体的枠組み(処理の場所、対象、スケ ジュール、環境・安全問題等)について協議を進め、認識の一致を見たことから、1999年7月30日、日中政府で「中国における日本の遺棄化 学兵器の廃棄に関する覚書(以下、「覚書」)」に署名した。

 事業推進のための実務面については、同年6月、日中共同作業グループの下に日中専門家会合が設立され、月1回のペースで協議を行っている。

 なお、これら日中政府間の協議の本格化に伴い、日本政府は政府内の体制整備を進めてきたが、中国政府も2000年1月に外交部アジア局に「日本遺棄化学兵器問題処理弁公室」を設置し、本事業への協力体制を整えた。

 

3. 日本政府の体制整備

 

  化学兵器禁止条約の発効に伴い、政府は、遺棄化学兵器の廃棄という前例のない課題に政府全体として取り組むため、1997年8月26日、閣議了 解により内閣に「遺棄化学兵器処理対策連絡調整会議(議長は内閣官房副長官(事務)。)」を、同年10月1日、内閣官房に「遺棄化学兵器処理対策室」を設 置させた。

 さらに、廃棄処理事業を実施する省庁については、1999年3月19日の閣議決定により、2001年1月の中央省庁改革までの間は総理府が行うこととなり、1999年4月1日、総理府(現内閣府)に「遺棄化学兵器処理担当室」が設置された。

 なお、廃棄処理事業の進展に伴い、2004年度からは、内閣府を補助する事業実施機関として株式会社遺棄化学兵器処理機構を調達し業務委託契約を締結して本処理事業の具体的推進体制を整え今日に至っている。

 

4. 中国における遺棄化学兵器の現状

 

(1) 中国における遺棄化学兵器の特徴及び状況

 

【1】 遺棄化学兵器には、きい剤(びらん剤)、あか剤(くしゃみ(嘔吐)剤)等様々な種類があり、

    砒素を含有する化学剤が多く使用されている。

【2】 上記化学剤を充填した遺棄化学兵器には、化学砲弾、化学爆弾、有毒発煙筒、化学剤入りのドラム缶状容器

    などがある。

【3】 化学砲弾及び化学爆弾にはピクリン酸が伝火薬または炸薬として使われている。

【4】 戦後長期間にわたって埋設されていたため、これまで発掘・回収された化学兵器には腐食及び損壊が見られ

    る。

【5】 遺棄化学兵器の大部分は吉林省敦化市ハルバ嶺地区に埋設されていると考えられている。

    2002年の調査により詳細なデータを得て、検討を行った結果、最近になり化学兵器等埋設

          数は30~40万発であると推定されている。また、これまでの調査によると、ハルバ嶺以外にも遺棄化学

    兵器は、北は黒龍江省から南は広東省まで広い地域で発見されている。しかしながら日中双方に遺棄化 学兵

    器の所在に関する資料は十分なものがなく、すべての埋設地等を特定することは困難であり、今後もさらに

    発見される可能性がある。

 

(2) 旧日本軍の化学兵器に使用されている化学剤の種類

 

旧日本軍における化学剤の名称等は、以下のとおりである。
区分 旧日本軍における名称 化学物質の名称
びらん剤 きい剤 マスタード、ルイサイト
窒息剤 あお剤 ホスゲン
くしゃみ剤
(嘔吐剤)
あか剤 ジフェニルシアノアルシン
ジフェニルクロロアルシン
催涙剤 みどり剤 クロロアセトフェノン
発煙剤 しろ剤* トリクロロアルシン
血液剤 ちゃ剤** シアン化水素
 

* 「発煙剤」(しろ剤)は、遺棄化学兵器処理事業において、単独の兵器としてはこれまで確認されていないが、「あおしろ弾」(「あお剤」と混合したものとして製造)は、確認されている。

** ちゃ剤を用いた「ちゃ弾」は、これまでの発掘・回収事業では見つかっていない。

(「内閣府遺棄化学兵器処理担当室」より引用)

Reference


 

●「化学兵器禁止条約」について:

「化学兵器禁止条約」は、正式名称を「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」といい、化学兵器の廃絶を目指す多国間条約である。1992年9月、国連軍縮会議において条約案が採択され、93年1月13日にパリで署名式が行われ、97年4月発効した。2001年2月現在の締約国数は143カ国。主な未加入国は、北朝鮮、イラク、イスラエル、リビア、エジプト等。

条文は外務省を参照。

 

●遺棄化学兵器処理事業について:内閣府遺棄化学兵器処理担当室